「竹の節を平らに切って立てるように武田信玄公が決めた」と伝えられる「武田流門松」。雲松園では、「武田流門松」の立て方が代々受け継がれてきました。小林豊蔵は、親方(父)から聞いた「武田流門松」の立て方を次世代に伝えようと著書「庭木の剪定技法」の中に詳しく書いています。

それによると、竹の節を平らに切るようになったのは、武田家と徳川家(松平家)の間で次のような経緯があったからだといいます。
ある年の元旦に武田家の元に徳川家から飛脚が来ました。その書状には

松立てて
武田(竹)首なき
朝(あした)かな

とありました。それを見た武田は、次のような句を作って飛脚をとばして送り返したそうです。

松枯れて
武類(たけたぐい)なき
朝(あした)かな

以来、竹を斜めに切ることは「武田の首を切る」ことを指すので忌み嫌い、武田家では節を平らに切って門松を立てるようになったと、豊蔵は父から教えられました。

正月飾りの門松は、幸せな新年を迎えるために縁起の良い松竹梅を使うのが昔からの習わしですが、武田の「竹」を尊ぶ立て方は、山梨以外ありません。竹を松より高く飾る決まりです。松平の「松」よりも武田の「竹」を重んじるのが「武田流」です。

「武田流」では、竹を3本使い、中心の長いのが五尺(1・515m)、次は三寸五分(16㎝)短く、3本目も三寸五分短く四尺三寸(1・303m)に切って立てます。

注意する点は、竹には背と腹があるから正面には必ず腹を向けて立てることです。背を表に向けると、敵に背を向ける、逃げる形になるので忌み嫌いました。腹を前に向けると敵を攻める前進の形で縁起のよい立て方として伝えられています。また特に縁起をかつぐ家では雄竹と雌竹を使ったそうです。

山梨県造園建設業協同組合では「武田流門松」の製作技法を学ぶ講習会を開き、伝統の技術の継承に努めています。また、毎年暮れには「武田流門松」を山梨県庁の玄関前に設置し、県民に広く知っていただくようにしています。